四国遍路は弘法大師の修行場

四国遍路をする人はそんなことは誰でも知っていることだと思いますが。弘法大師が四国を歩いて修行した、その足跡をたどるのが四国遍路ということになります。

そしてよく言われるのが、四国遍路は呼ばれていくもの、ということ。呼んでいるのは弘法大師、空海。遍路の旅に出ることが出来るのはここで修行せよと空海に呼ばれたから。

それで修行と言っても方法はいろいろで、一般的なイメージは滝に打たれるとか、座禅をするとかそういう厳しいものが修行のように思うのですが、もしかするとそれだけではないのかも知れません。

体力がついたり精神力が強くなるのはもちろん修行ですが、それ以上に重要なのは自分にとって大切なことはなんだろうかというような、何かに気がつくことも修行ではないかと思うのです。

そのための手段として四国遍路があるとすると、何も歩くだけが修行ではないと思います。バスに乗ろうがタクシーに乗ろうが構わない。極端に言えば満願出来なくても構わない。

四国の道で人と触れ合ったり、逆に孤独にひとりで道を歩いたり、体力の限界に来たり、楽しくワイワイやったりと、すべての行動が何かに気がつくためにあるように思います。

それらがすべて弘法大師のお計らいで、だから遍路には呼ばれると言われるのだと思うわけです。

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四国遍路は弘法大師と同行二人

四国遍路の装束は白装束ということで死装束でもあるわけですが、服にも傘にも同行二人、と書かれています。

お大師様と二人で歩く、という意味だそうです。誰かと出会うという以外にも、目には見えなくてもいつもお大師様が守ってくださっているということなんでしょう。

今も昔も未熟な人間と一緒に歩き見守ってくださっているということ。

その中で、誰に出会い、何を見て、何を思うか、何に気がつくか、というのが修行なのではないかと思うのです。

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残念ながら一回巡礼して見て、自分が何かに気がついたかと言われると何に気がついたのかは分かりませんし、同行二人だと言われても弘法大師が一緒に歩いてくれたとか言うのは全く分かりません。

ただ、間違いなく歩いたのは自分の足なんですが、杖なしに歩くことは出来なかった。この杖は金剛杖と呼ばれていますが、弘法大師の分身だと言われています。

最初はなんのことだか分かりませんでしたが、実際に歩いてみるとこの杖のおかげでどれだけ助かったことか。

歩き終わったら最初に購入した時から15cmも削れていました。その時に、ああ、お大師さんが一緒に歩いてくれたのか、と思ったものです。

どんなに偉そうにしても、自分の場合は、杖の支えなくして歩くことは出来なかった。同じように人生でも、これまでも、これからも身を削って支えてくれている人がいるんだろう。

遍路の最中でも弘法大師の化身かと思うようなありがたい人に会いました。多分、もう二度と会うことのない人たちですから、その出会いは弘法大師のお導きということなのかもしれません。

あれからもう12年も経過しましたから、思い出は薄れてしまって、人のありがたさなんかも忘れてしまうことが多いのですが、こんなことを書いているとたまに思い出す事ができます。

こういうことに気がつくのも弘法大師に呼ばれたからなのかもしれません。

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